古楽夢 ~弐拾~

古楽夢(弐拾)

木曽街道
沓掛ノ驛/平塚原雨中之景
/英泉画

 この絵の副題にある平塚原は、離村と前沢村の間で離村寄りの北側にあった。この辺りは浅間山の南の裾野で、ここを横切って通る中山道の左右は全て原野であった。この絵の右の家並みは離村で、左の川は湯川であろう。浅間下しの寒風と、叩きつけるような雨の中を難渋しつつ街道を辿るのは、旅人と中馬である。旅人達は前屈みになって強風に立ち向かい、吹き飛ぶ菅笠を手で押さえたり、合羽の裾を風で捲り上げられたりしている。中馬とは山に囲まれ、河川や水運に恵まれなかった信州の農民が自分の馬を3~4頭引き連れて、駄賃稼ぎに荷物を運んだことから始まった。中馬は荷物を積み替えることなく、産地から目的地まで直送したので荷物の損傷が少なく、また運賃も安かったので、「岡船」ともいわれて商人達に盛んに利用された。馬の代りにこの絵に描かれているように牛を使った場合も中馬といった。牛は山道に強く、食物を反芻したので、餌の面でも便利であった。沓掛宿の西の古宿や借宿には中馬専門の宿があって、中馬で潤っていたという。さてこの絵の中馬は、信州から上州倉賀野宿まで米を運んで行き、その帰りに信州まで塩、干魚、茶、日用品などを運んで行くところであろう。



小諸城の紹介

小諸城のご紹介

 長享元年(1487年)に大井光忠によって築城されたと考えられている。戦国時代、武田信玄の東信州経営のために現在の縄張とされた。現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられているが、根拠となる史料はない。
安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修された。現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるもので、三重天守もその頃に建てられたものであった。天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたが寛永3年(1626年)に落雷によって焼失している。
城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある。

 また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然の防御陣として利用されている。
懐古園は白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡で三の門には徳川家達(いえさと)公の筆になる「懐古園の」大額が掛かっています。
小諸城は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られ、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっています。
また、文豪島崎藤村の千曲川旅情の歌「小諸なる古城のほとり」でも知られる信州の名園となっています。