古楽夢 ~弐拾弐~

古楽夢(弐拾弐)

小田井/広重画

小田井から岩村田へ向かって坂道を下ると右側に、『木曽路名所図会』や『岐蘇路安見絵図』に「かないか原」と記された野原がある。ここは皎月原ともいい、その昔白山大権現の化身であった官女皎月が、馬を輪乗りにしたため、草の上に円形のあとができ、これを皎月の輪といったという伝説が残るところである。広重の絵は、この野原から浅間山を望んで描いたものであろう。そして浅間山の麓から引いた用水が流れるすすき野を渡って行く信心深い人達が主な画材になっている。菅笠を被り、笈を背負い、「本堂造立」の幟の竿を杖代りにしているのは勧進僧である。有名な寺の本堂建立に必要な淨財を求めて諸国巡りをしているのだろうか。反対からやってくるのは2組の巡礼である。先頭の若い男は白い笈摺を着、背には笈を背負い、杖を持っている。菅笠に同行三人と書いてあるのは、自分と懐の緑児と仏様の3人という意味である。おそらく彼は失った女房の菩提を弔うために巡礼をしているのであろう。後の2人は親子連れのようである。母親は笈摺は着ていても笈は背負わず、他人から施しを受け取る時に差し出す柄杓だけを持っている。その後を笈を背負った息子が従う。彼の菅笠にも「同行三人」と書いてある。



六文銭家紋短刀拵え

真田氏の家紋としての「六文銭」
「六文銭」を家紋に採用した意味と時期
真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、
死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われています。
真田氏の代名詞になっているほど、特徴的な家紋ですが、これは真田幸隆(幸綱)が旗印として採用したのが始まりだと言われています。

真田信繁(真田幸村)は大阪の陣で六文銭を使用しなかった。
小説やテレビドラマなどの影響で、大阪の陣の時に真田信繁(真田幸村)が六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ突入していったと思われがちですが、実際は武具を全て赤一色で統一する赤備えで決戦に望み、少なくとも目立つところには真田の家紋は一切使わなかったようです。これは、徳川方についた真田宗家である兄真田信之(信幸)に対して気遣ったものであり、尚かつ赤備えで活躍した武田氏の流れを汲む者であることを意識してのことだと思われます。

結び雁金

真田氏の家紋としての「結び雁金」六文銭は戦時の色合いが濃い家紋であるため、真田氏は六文銭が使いにくい場合においては、雁金などを用いました。時代が進むにつれ次第に六文銭の使用が拡大したため、結び雁金の存在は薄くなっていきました。

真田氏データーベース真田氏家紋より抜粋