古楽夢 ~弐拾五~

古楽夢(弐拾五)

八幡/広重画

東から八幡宿へ入る手前に中沢川が流れ、そこに板橋が架かっていた。この絵はこの橋を渡った八幡宿から東の経塚村方面を見た風景である。橋の袂の川岸には根杭が何本も打ち込まれて、岸部が洗い流されるのを防いでいる。さらにその下流の岸には水防用の蛇籠がいくつも伏せてある。対岸の丘上に建っている吹貫の藁屋根の小屋は宿場外れによくある出茶屋であろうか。川岸に繁茂した竹藪の背後には浅間山が聳えており、その右背後に見えるのは碓氷峠であろう。橋を渡って宿場へ辿り着こうとしている老旅人は、羽織、股引、手甲をして休息用の茣蓙を背負っている。その後に、握飯などを入れる藁苞と、農作物か何かを包んだ藁筵を天秤で担ぐ農夫が続く。反対に橋を渡って行く子供は、小枝を入れた竹籠を背負って家へ急ぐ。その前方は手拭を頬被りし、担いだ鍬の柄の先端に煙草入れをぶらさげ、煙管を吸いながら家路を辿る農夫である。遠方からは、手拭を被り、掻巻で赤子を背負った女房が籠を抱えて坂を上ってくる。さてこの宿場へ入ったすぐ北側に八幡社がある。旧名を高麗社といい、古代この地で行われた馬の飼育を教えに渡来した高麗人を祀った社だといわれている。この社の北に勅旨牧の御牧ヶ原が続いていた。



地名を冠した兜鉢のご紹介

その二 雑賀鉢 鉄錆地雑賀鉢(松本国彦氏蔵)
鉄地七枚張星座の雑賀鉢。
内眉庇の付いた棚眉庇形式の
眉庇が付く。
八幡座には菊座が配されている。

雑賀鉢とは、紀州(和歌山県)雑賀荘に居住した甲冑師たちが製作したものをいう。
鉢の形は、朝鮮や蒙古の兜を手本としている。また、古墳時代の兜にも共通の特徴が見て取れる。雑賀鉢の特徴を記すと、頭形・置手拭・七間か八間の筋兜が多く、いずれも矧留には多くの星座を用いている。




さらに、正面に鎬を立て、八幡座に共鉄菊座を据え、棚眉庇を用い、内眉庇は頬まで覆っている点などである。シゴロは板制の饅頭形シゴロ・下散シゴロ・日根野形シゴロを用いる。室町時代末期が雑賀鉢の製作の全盛期であった。従来の伝統的な兜に飽き足らない人の心を大陸風の雑賀鉢が捉えた。これによって需要は急上昇したのである。雑賀鉢は鍛えの良さではすでに名声を馳せていた。春田派・明珍派の甲冑師たちの中には雑賀に入り、鍛えの技術を学んだ者もいる。代表的な雑賀の甲冑師はというと、春田喜右衛門・春田清蔵・雑賀吉久・雑賀吉長・雑賀吉秀などの名が挙げられる。

学研 図説・戦国甲冑集より抜粋