古楽夢 ~弐拾七~

古楽夢(弐拾七)

あし田/広重画

この絵は芦田宿の西にあった「笠取峠の松並木」を描いたものだとする説もあるが、この絵の街道沿いに立っている木は松ではなくて杉である。従ってこの絵は、ここよりさらに西へ登った所にある笠取峠そのものを、西から東を見て描いたものとする方がよさそうである。遠くに見える茶色の山は浅間山である。この峠は蓼科山から北に延びる尾根上にあって、ここを越える強い風が人の被った笠を吹き飛ばしたということから、笠取峠と呼ぶようになったという。この峠はまた信州の小県郡と佐久郡の境であった。峠付近にあった2軒の出茶屋では、「笠取名物 三国一の力餅」という餅を売って、旅人達の疲れを癒していた。この絵にも峠の頂上に1軒、頂上から下った凹みに1軒の出茶屋が描かれている。上の茶には力餅を食べながら休む旅人が見え、また下の出茶屋の竃には湯を沸かす大きな釜が掛けられ、外には床几も置かれている。上ったり下ったりして起伏のある峠道を往来する色々な徒歩の旅人達に混って芦田宿へ向かう2台の駕籠が描かれている。前の方は豪商の乗る豪華な法仙寺駕籠であろうか。両掛を担いだ供を引き連れている。後の粗末な四ツ手駕籠には白い顔を下した女が乗っているようだ。



地名を冠した兜鉢のご紹介

古楽夢(弐拾七)

その四 上州鉢 黒漆塗鉄地六十二間小星兜
眉庇は当世風で、シゴロは鉄地
板物六枚を紺糸で素懸け威し
にした日根野シゴロ。
鉢銘に「上州住成重作」とある。



古楽夢(弐拾七)

天辺をめぐる打留小星の形状が、上州鉢の特徴のひとつでもある。
上州鉢は、室町時代末期から安土・桃山時代にかけて、上野国の白井・小幡・八幡・高崎に居住した明珍派が製作した兜鉢である。居住地の白井は白井城近辺、小幡・高崎は箕輪城や高崎城近辺と思われる。なかでも白井に居住した一派は、白井長尾氏の本拠地である白井城内に工房を持ち、長尾氏の庇護のもとで多くの名工を輩出している。
上州明珍は、室町時代後期に山内上杉氏や長尾氏に招かれて、小田原の地より移ったと考えられる。因みに、長尾氏には、上野白井長尾氏・上野惣社長尾氏・鎌倉長尾氏、越後長尾氏の四家がある。上州鉢は引き締まった端正な姿である。鉄地は薄く、星も小さく引き締まっており、当世眉庇を用いている。角元は祓立形式を多く見受け、シゴロは後補の板製日根野形シゴロを多く見る。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原の役に於いて、上野衆の武将達は秀吉方の前田利家らに攻められ降伏した。これに伴い上州明珍の甲冑師たちも、この地を離れることを余議なくされた。やがて憲国をリーダーとするグループは、雲海派として前田家の庇護を受け、再びの繁栄を手にする。

学研 図説・戦国甲冑集より抜粋