古楽夢 ~参拾壱~

古楽夢(参拾壱)

塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望/英泉画

下諏訪を出て、塩尻峠へ登る坂道を少し行くと、この絵のように諏訪湖越しに、左手の八ヶ岳連峰と右手の赤石山脈との間の谷間を通して富士山を望むことができた。厳寒のよく晴れた日には、冠雪した富士山が一層くっきり見えたに違いない。凍結した諏訪湖の湖面に見えるひびは「御神渡」であろうか。湖面が凍結したあと、寒い日が4,5日続くと、冷却した氷の体積がさらに膨張し、突如として百雷が鳴ったかと思われるような音響を立てて、幅1メートル余りの突堤が湖面を横切って盛り上った。これは諏訪に鎮座する諏訪明神が、下諏訪の下社に鎮座する女神のもとに通われるために起ったのだと考え、土地の人々はこれを「御神渡」と称していた。この土地の農民達は、この突堤のできる方向によってその年の農作物の豊凶を占った。「御神渡」のあった後の氷上は安全と考えられ、人々は氷上を歩いて渡った。この絵に見える旅人達は下諏訪から諏訪の方向へ渡っている。左側の湖畔に聳えている城は高島城である。この城から眺めた湖面に映った富士山の景色は古から有名であった。塩尻峠へ向かう坂道では、荷物とともに馬に乗った旅人と馬子が素晴らしい景色にみとれている。眼下に見える町並は岡谷村である。



古楽夢(参拾壱)

筋兜の作られた経緯のご紹介

従来の小星兜は、大鎧と一セットで用いたため、軽快な胴丸・腹巻が全盛となると人気は凋落していった。そこで登場するのが、胴丸・腹巻のデザインにマッチした軽快な筋兜である。筋兜は室町時代中期頃まで圧倒的な支持を得ることとなる。筋兜とは何枚かの細長い板金を矧ぎ、頭のない鋲で留め、板金の縁を捻り返して“筋”を立てた兜をいう。筋兜の発生は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃と考えられている。室町時代中期頃になると、南方より渡来した瓜(うり)を象ったという阿古陀(あこだ)形筋兜が流行を見る。



古楽夢(参拾壱)

ニューファッションはいつの世も人の心を虜にするが、筋兜もまた、この阿古陀形筋兜に人気の座を奪われ、一時衰退を余儀なくされる。しかし、戦国時代になると再び陽の目を見る。阿古陀形筋兜は鉄地が薄く実戦には不利。そこで鉄砲や槍を意識して強度を増した、鍛えの良い新しい筋兜が考案されるのである。筋兜は、明珍派・早乙女派・根尾派などの甲冑師が制作に当った。取分け仙台明珍・上州明珍・常州明珍・相州明珍などが得意とした。

古楽夢(参拾壱)