古楽夢 ~参拾弐~

古楽夢(参拾弐)

洗馬/広重画

この絵は洗馬宿の西を北流する奈良井川の夕景である。川堤の枝垂柳も川辺の蘆萩もともに北風に吹かれて頭を項垂れている。柴を積んだ船と筏とがゆっくり川を下って行き、荒野の果から上った大きな満月が中空に浮かんでいる。さてこの絵は「昿野の悽愴さ」、「抒情性」、「旅の悲曲」などを表現しているとして、広重の最高傑作に挙げる人が多い。しかしこの絵の場所を具体的に示した人は少ない。楢崎宗重氏は、宿場の西、奈良井川に臨む丘陵の中腹にある「太田の清水」辺りから東を臨んで描いたものと解説されている。ここは木曽義仲とその家臣今井四郎兼平が初めて邂逅した折、兼平が義仲の馬を洗ってやった清水がある所で、洗馬の地名が発生した場所でもある。ところがこの辺りは、東西から山が迫っていて、この絵が示す昿野の平坦さはみられない。土地の人は奈良井川のもっと下流の琵琶橋まで下れば、この絵に近い景色が見られるという。古代にはこの橋を重要な街道が通っていた。長徳の頃(995~999)のある月夜の夜、琵琶法師蝉丸はこの橋の上で琵琶の秘曲「流泉・啄木」を会得したという。広重はこの伝説のある橋の下流から、古戦場のある桔梗ヶ原方面を望んで描いたと考えた方がこの絵の抒情性が深まるのではなかろうか。



鉄錆地六十二間筋兜 銘 早乙女家久 認定書のご紹介

古楽夢(参拾弐)

筋兜の鉢は細長い三角形の板を矧ぎ、頭のない鋲で留めて作る。その板金の縁を捻り返して「筋を立てる」ことから筋兜と呼ばれ、胴丸・腹巻に添える兜として南北朝時代より現れ始めた。均等に走った筋が美しい筋兜には、その筋を強調するために金銅覆輪を施したものが多い。これを総覆輪筋兜という。室町時代中期以降、太刀打ち戦がメインとなると、鉢を打たれた際の緩衝対策として、鉢の内側に韋を浮かして張る「浮張」をするようになった。鉢の形も大きな変化を遂げ、いわゆる「阿古陀形」となる。これは、天辺が窪み鉢の前後が膨らんだ形の鉢の事。
シゴロは饅頭シゴロから笠シゴロと呼ばれる形に移り、吹返しは次第に小さく強く吹返すようになった。この形は室町時代の末期頃まで続く。室町時代末期頃には、矧板の数が多く鍛えの良い兜鉢が甲冑師明珍派により考案され、江戸時代まで続いた。筋の数が粗いものでは六間、細かいものでは五十数間にまで及ぶ。戦国時代も末期の桃山時代に入ると、六十二間の筋兜が多くみられた。また江戸時代に入ると八十間・百二十間・百六十間というものまで作られるようになった。

古楽夢(参拾弐)
古楽夢(参拾弐)