古楽夢 ~四拾八~

木曾海道六拾九次之内
大井/広重画

 中山道を中津川から歩いてきた旅人達は、大井宿の手前にあった甚平坂を登り、それから坂を下って宿場へ入った。甚平坂は距離は短いが急坂であったため旅人達に嫌われていたという。広重は雪の降りしきる中を雪塗みれになりつつ、頭を項垂れたままで黙々と甚平坂を登ってくる2組の馬子、馬、馬上の商人らしき旅人を描いている。どの馬も背の両側に明荷を渡し、真ん中に蒲圑を敷いて旅人を乗せている。これを乗掛といい、荷物に人を加えた重量制限は40貫目(150キログラム)であった。この重量に耐えている背の低い馬は木曾駒であろうか。木曾駒は体格が矮小で粗野に見えたが、強健な四肢を持ち、粗食に耐えて持久力があり、従順で扱いやすかったので、山道が多い木曽路には最もふさわしい馬とされていた。この凍てつくような寒さの中、馬上の旅人2人はともに木綿製の合羽で身を包んでいるが、前の馬子は着茣蓙、後の馬子は桐油紙の赤合羽で身体を覆っているのにすぎず、その上、脚絆も巻かない足は雪の中に深く沈み込んでいる。さて遠方に目を向けると、手前右の松の幹の背後に見える大きな山は恵那山で、その左の木曾谷を通して一番奥に白い頭を出しているのが御嶽山である。



   脇差のご紹介 左文字銘の変わった刀
        中心(なかご)の切銘  左文字 脇差

脇差銘:和州住義忠
 元禄(江戸中期の作品)大和鍛冶
 平造り 刃長 一尺二寸一分
 特徴的な左字に銘をきった脇差です。
 銘を左字にきって有名なのは、同国大和の左陸奥こと陸奥守包保で、この一門には銘を左字にきる刀工が多くこの義忠もその一人であろう。
 現・奈良市天蓋門門前町で作刀・義忠の後裔は刃物鍛冶として栄えたと伝えられています。